第45課 主の祈り(マタイ 6・7~15)

 つづいてイエズス様は、祈る時には、たくさんの言葉を使う必要はないと述べられ、次のような祈りをお教えになりました。

 『天におられるわたしたちの父よ、み名が尊まれますように。み国が来ますように。み旨が天に行われるとおり、地にも行われますように。きょうのかてをきょう与えてください。わたしたちの負い目をゆるしてください。同じようにわたしたちも、わたしたちに負い目のある者をゆるします。わたしたちを誘惑に陥らないように導き、わたしたちを悪から救ってください』

 これはイエズス様がご自分で教えられた祈りですから、「主の祈り」と呼ばれています。この祈りを唱える時は、子供としての気持をもって、神様をお父さんとして呼びかけます。イエズス様がこの祈りを教えられた時、アラム語で幼い子供が使う言葉をお使いになりました。日本語で言えば「パパ」という言葉の感じがします。つまり、私たちは自分の弱さを認めて、小さな子供のように謙虚な気持で祈るべきだと、イエズス様は教えられたのです。

 また、この祈りを教えられた時に、イエズス様は、「わたしの父よ」ではなく、「わたしたちの父よ」と神様に呼びかけるようにお勧めになりました。つまり、神様が自分だけのお父様でなく、すべての人々のお父様であることを認識して、自分のためだけでなく、神様の子供であり、自分の兄弟である、すべての人々のために祈るように教えられました。

 それからイエズス様は、どのようなことを頼むべきかを教えられました。初めは霊的な恵みばかり述べられています。まず第一に「み名が尊まれますように」と祈りなさい、とおっしゃいました。これはすべての人々が神様を信じ、神様を愛して、人生のすべてを神様に捧げることを意味します。

 二番目の願いは、一番目のものと似ています。「み国が来ますように」という願いです。神様のみ国は霊的な国で、平和の国、愛と喜びに満ちた国です。この霊的な国は世の終わりに天国で完成されますが、今の世の中にも存在しています。信仰と愛によって神様と結ばれている人々は、既に神様のみ国の国民になっているからです。「主の祈り」を唱える時は、すべての人々がこの国に入って幸せになるようにお祈りします。

 イエズス様が教えられた三番目の願いは、「み旨が天に行われるとおり、地にも行なわれますように」ということです。天国が平和で幸せなところであるのは、天国に入っているすべての人々が完全に神様のみ旨にかなって、お互いに心から愛し合っているからです。この世の中のすべての人々が同じように、いつも神様のみ旨にかなって、お互いに愛し合っていくならば、今の世界は天国のように平和と幸せに満ちたところになるはずです。ですから、イエズス様は、「み旨が天に行なわれるとおり、地にも行なわれますように」と祈りなさいとおっしゃったのであります。

 そのあとで日常生活に必要なものを頼むように、イエズス様はお勧めになり、「きょうのかてをきょう与えてください」という願いを教えられました。この祈りの中の「かて」は、食べ物だけでなく、人間らしい生活を送るために必要なものを、すべて含んでいます。

 この願いを唱える時に、具体的なことを言う必要はないと、イエズス様はお教えになりました。なぜなら、神様は私たちに必要なものを全部ご存じだからです。

 また、贅沢なものでなく、幸せな生活を送るために、毎日必要なものだけを願うようにとイエズス様は教えられました。ですから「きょうのかてをきょう与えてください」と教えられたのです。

 「主の祈り」の最後の言葉としてイエズス様は次の言葉を教えられました。「わたしたちの負い目をゆるしてください。同じようにわたしたちも、わたしたちに負い目のある者をゆるします。わたしたちを誘惑に陥らないように導き、わたしたちを悪から救ってください」

 本当の幸せを経験し、永遠の救いを得るためには、罪のけがれから清められることが、なによりも大切ですから、罪のゆるしと、これから罪を犯さないために必要な御助けを祈るのは当然です。ところが、イエズス様が教えられたように、「主の祈り」を唱える時には、罪のゆるしを願うと同時に、人の罪をゆるすことも約束します。イエズス様が、「あなたがたが人のあやまちをゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるしてくださらないであろう」とおっしゃったからです。

(つづく)