第44課 祈りと断食(マタイ 6・5~6、16~18)

 イエズス様は施しをする時には偽善者にならないようにと、弟子たちに注意なさいましたが、祈りと断食についても同じようなことをお話しになりました。

 つまり、人々の注目を集めるためにするのであれば、その祈りと断食の価値はなくなるとおっしゃいました。「あなたは祈るとき、奥のへやに入って戸をしめ、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい……」。「断食するときは、……顔を洗いなさい。それは、断食していることを、人々には知られないで、隠れた所においでになるあなたの父にだけ知っていただくためである」と、イエズス様はおっしゃったのです。

 イエズス様は罪から清められ、神様と結ばれるために、祈りと断食のような犠牲を捧げることを弟子たちによくお勧めになりましたが、謙遜な心をもってしなければ、よいことをしていながら、傲慢の罪を犯すことになると教えられました。

 このことを強調するために、別の時に、イエズス様は次のようなたとえ話をなさいました。

 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人であった。ファリサイ派の人は……心の中でこう祈った。『神よ、わたしは、……この徴税人のような者でもないことを、あなたに感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を納めています』と。ところが、徴税人は、……胸を打ちながら、『神よ、罪びとであるわたくしをあわれんでください』と言っていた。……正しいとされて家に帰ったのは徴税人であって、ファリサイ派の人ではない。だれでもみずから高ぶる者は下げられ、みずからへりくだる者は上げられるのである」

(つづく)