第36課 完 徳

「もし私のあとに従おうと思うなら、自分をすてて、日々自分の十字架をせおって私に従いなさい」
キリストのみことば
(マテオ19の6)

キリスト教的完徳とは何ですか。
キリスト教的完徳とは、すべての事がらにおいてキリストにならって、
神を愛し、み旨に従い、人を愛し、諸徳を修めることです。

 ある時、キリストはでしたちに、「あなたたちの天の父が完全であるように、あなたたちも完全になものになりなさい」(マテオ5の48)とおっしゃって、絶えず神に近づくようにつとめ、完徳に達するようにとおすすめになりました。また、それに達する方法として「もし、あなたが完全になりたいなら、私に従いなさい」(マテオ19の21)とお述べになり、ご自分を模範として従うようにお命じになりました。

 キリストを模範とし、それにならうということは、奇跡を行なうということではありません。キリストの愛を学ぶのです。キリストは人類に対する愛のためにこの世にお生まれになり、人々をなぐさめるために奇跡を行ない、私たちを救うために十字架の上でおなくなりになりました。私たちは奇跡を行なうことはできませんが、愛のために生活し、キリストにならって完徳にすすむなら聖人になることができます。キリストは最後の晩さんのときに「私があなたたちを愛したようにあなたたちが互いに愛し合うこと、これが私のおきてです」(ヨハネ15の12)とでしたちにおっしゃっています。

 しかし、キリストの愛にならうためには、そのけんそんをもならわなければなりません。なぜなら、けんそんな人だけが真の愛の生活ができるからです。キリストは神でありながら貧しい幼児として世に生まれ、十字架上でおなくなりになるまで貧しい生活をしてけんそんの模範をお示しになりました。そして「私は心の柔和な、けんそんな者であるから、私にならいなさい」「マテオ11の29)というみ言葉をもって、でしたちが特にご自分のけんそんにならうようにおすすめになりました。

 完徳に向かってすすむということは、キリストのけんそんと愛にならうことによって神に近づくことです。そして、カトリック信者はだれでもそれを実行することができるばかりでなく、そのためにつとめる義務があるのです。

 またキリストは完徳にすすむ道として、清貧、貞潔、従順をおすすめになりましたから、ある人たちは世間的な生活から離れて、一心にキリストにならった生活をするために誓願をたてて修道生活を送ります。修道者は清貧の願によって、神に対する犠牲として自分の所有権を捨てます。また、貞潔の願をたてるとき、結婚する権利を捨て、従順の願によってどんな場合にも修道会の長上の命令に従うことを約束し、生活の自由を犠牲として神にささげます。

 修道生活のうちには、祈りの心を持ちつづけ、欲望をおさえて神につかえ、完徳にすすむ特別な機会がありますが、完徳にすすむためにはそのような生活だけが必要なのではありません。そのような生活を送ることができない人たちでも、みなそれぞれの家庭や職場でキリストにならって生活することができます。しかも、カトリック信者はそのようにつとめる重い責任を持っているのです。

(終わり)