第25課 ミサ聖祭

イエズスは「パンを取り、感謝してさき、でしたちに与えて、“これは、あなたたちのために与えられる私の体である。私の記念としてこれを行いなさい”とおおせられた」
(ルカ22の19)

ミサ聖祭とは何ですか。
ミサ聖祭とは、救いの犠牲であるイエズス・キリストの御からだと御血とが、
司祭の手をとおして神にささげられる教会の祭りです。

 キリストは、ご自分を霊的なかてとして、でしたちに与えるために聖体をお定めになりましたが、もう一つの理由は、それを通じてでしたちがみなご自分の犠牲にあずかることができるようにとのお心からです。

 犠牲とは目に見える供え物を神にささげることによって、神への人の心の奉献を表わすことです。イエズスは幼いころからご自身や全生活を救いの犠牲と考えられ、聖木曜日の晩、パンとぶどう酒の外観のもとにそれを御父にささげられ、あくる日十字架の上で御血を流されてそれを完成なさったのであります。その後、聖体が聖変化されるたびごとにキリストは祭壇の上においでになって、パンとぶどう酒の外観のもとにご自身をいけにえとしておささげになります。この聖体のよってささげられる犠牲がミサ聖祭です。

 ミサ聖祭の間にイエズスはお苦しみもなくご死去にもなりませんが、十字架上でなさったようにご自身を人類の救いのためにおささげになります。ミサ聖祭と十字架上と犠牲のささげ方は違っても実体において同じです。

 ミサ聖祭はこのように十字架上の犠牲と同じものですから、司祭と信者はそれをささげることによって、キリストの十字架の犠牲にあずかることができます。信者は成聖の恩恵によってキリストと一致することをよく考え、ミサ聖祭にあずかるときに、自分をキリストとともにいけにえとして神にささげるのです。イエズスがその全生活を十字架の上でおささげになったように、カトリック信者は自分の生活を犠牲と考え、いつも神のために力をつくし、ミサ聖祭にあずかるときに自分の考え、言葉、行ない、苦しみ、喜びなどをすべてささげるのです。

 イエズスの十字架上の犠牲が歴史上最もすぐれた行ないでありその中心であるように、ミサ聖祭はカトリック教会と信者ひとりひとりの生活の中心です。また、犠牲によって神を最もふさわしく礼拝いたしますから、それは祈りでもあります。ミサ聖祭は完全な犠牲ですから、最もすぐれた祈りでもあるわけです。ミサ聖祭の間にすべての罪を償われた犠牲が繰り返されるのですから、信者は特にミサ聖祭の間罪を痛悔し、罪のゆるしを受けるべきです。イエズスはいつも代祷者であり、ご自分を御父にささげるたびごとに、私たちのために恵みをお頼みになってくださることを考え、信者はミサ聖祭の間にキリストと声を合わせて祈願するのであります。

 なお、ミサ聖祭において聖体を拝領する信者は、その前に自分の心をよく反省して、心身ともに準備をしなければなりません。具体的には、罪があれば告解の秘跡によって罪のゆるしを受け、からだのためには、一時間まえから固形物と水以外の流動物をとってはいけません。水および医薬は、固形でも液体でも、いつでも飲むことができます。病人は流動食をとってもよく、また生命のあぶない病人には、この断食の義務はありません。

(つづく)